広島高等裁判所 昭和44年(う)185号 判決 1971年2月25日
主文
原判決を破棄する。
被告人を懲役一〇月に処する。
原審及び当審における訴訟費用は全部被告人の負担とする。
被告人の本件控訴を棄却する。
理由
<前略>
弁護人の論旨第一点(事実誤認)について、
<中略>
検察官の論旨第一点(事実誤認)及び弁護人の論旨第二点(法令適用の誤り)について、
検察官の所論は、要するに、被告人は本件各犯行当時是非善悪を弁別する能力を有していたことは明らかであつて、原判決が、「心神耗弱を認定した理由」として認定判示する諸事実を根拠として、被告人が本件各犯行当時、心神耗弱の状態にあつたものと認定したのは事実の誤認であり、その誤認が判決に影響を及ぼすことが明らかであるというのである。
一方、弁護人の所論は、要するに、原判決が、「心神耗弱を認定した理由」として認定判示する諸事実からすれば、被告人は、本件各犯行当時、是非善悪の弁別能力に欠けていたものであることが明らかであり、従つて被告人に対しては心神喪失の状態にあつたものとして刑法三九条一項を適用して無罪の言い渡しをすべきであつたのに、被告人は当時心神耗弱の状態にあつたものとして同法三九条二項を適用した原判決は法令の適用を誤つたものであり、その誤りが判決に影響を及ぼすことは明らかであるというのである。
そこで先ず検察官の所論について判断する。原判決は、「心神耗弱を認定した理由」中で説示するように、(一)宴会の解散直前、酒に強い被告人が人にからんでいるのを見て、やや普段と違うと感じたとの同僚下西基允の証言、(二)駐車中の車内で休息後、自ら自動車を所有し、窃盗の前科、前歴もない被告人が歩いて帰るのがおつくうになり他人の自動車の運転を開始している事実、(三)その運転の径路を全然記憶せず、追突直前に赤いテールランプを見たことのみを鮮明に記憶している事実、(四)事故後の酒酔い、酒気帯び鑑識カードによつても、かなり酔つていた状態がうかがわれる事実等を根拠として、本件犯行当時被告人が心神耗弱の状態にあつたものと認定しているので、記録及び証拠を調査し、当審における事実取調の結果に基づき、右の諸点について順次検討することとする。
(一)の点について、
原審証人下西基允は原審公判廷において「被告人は相当酒に強く、顔にも出ない。被告人は平素は酒を飲んで人にからむということは殆どないが、その日は酒に酔うて平素とちよつと違つたところがあつた。それは知人の原田のところで飲むときちよつとからんだような態度というか、そういうふうなことがちよつとあつた。平素ないからわずかなことであるが、ちよつと気になつた。悪酔いしているということについては別にそう気にしていなかつたが、ちよつと違うなと感じた。それ以外に変つた様子はなかつた。」旨の証言をしているのであつて、本件当日被告人が酒に酔つて知人にちよつとからんだりして、平素とちよつと違つたところがあつたことは、原判決の説示するとおりである。しかし、右証言によれば、友人の下西も被告人が知人にからんだりした様子を見て、ちよつと気になつた程度であり、それ以上特に変つた様子はなく、被告人の酩酊はそれほど高度なものではなく、また異常なものでもなかつたことが認められる。
(二)の点について
被告人の検察官に対する供述調書によれば、自ら自動車を所有し、窃盗の前科、前歴もない被告人が歩いて帰るのがおつくうになり他人の自動車の運転を開始していることは、原判決の説示するとおりであるけれども、被告人は、司法警察員為明信雄に対する供述調書中において「少し位横になつて眠つたものと思うが、目がさめて運転台に坐つたとき、私のキャロルに眠つていたのかなあという一時的な錯覚がしたが、よく見ると車の中の様子が違うし、坐つた感じも違うので、これは自分の車でないとすぐ分かつた。この時その車が人様の誰のものが分からんのだから、車から降りて帰ればよいものを、つい酒を飲んでいたため、大きい気になり、この車を運転して帰つたろうという悪い気を起した。その車を運転して帰ればその時の車の駐車してある街も所もよく分からないので、勿論元の場所に返すなどということも考えていないし、どうせ皆実町の方に乗り捨てるぐらいにしか思つていなかつた。このような考えで車のエンジンをかけようとエンジンキーを見たが鍵穴に差しこんでないので、私は今までにも私の車のキーをなくしたりしたとき、エンジンキーの鍵穴の内側の配線を引き抜いていわゆる直結にするというか、配線をつなぐとエンジンを鍵を回してかけると同じ状態になるわけで、経験があるので、その車も同じように配線を抜いて結び、直結にしてエンジンをかけた。エンジンはすぐかかつたので直結を離して、運転して走つた。」旨供述しており、右供述によれば、被告人は本件自動車内で休息後、その運転を開始するまでの経過、その間の自己の心理状態(本件犯行の動機、意思)、自己の行動(犯行の態様)等についてかなり明確な認識を有していたものであることが認められる。
(三)の点について、
原判決は、被告人が本件自動車の運転を開始してから後その運転径路を全然記憶せず、追突直前に赤いテールランプを見たことのみ鮮明に記憶している旨説示しているけれども、被告人は、検察官に対する供述調書中において、「そしてこの車を駐車した位置から運転しはじめた頃、この車の左側に二、三台の自動車が停車していたので、これと接触しないように注意しながら運転していたことをうつすら覚えている。また、この車が駐車していた所から大通りに出るまでいくつも十字路があつて、その度毎にどのように抜けようかと考えていた記憶がある。」旨、運転開始当初の状況をかなり詳しく供述し、さらに大通りに出てからの状況についても、「私が事故を起した国道二号線のバイパスは私が何時も車で通つているところです。この車を運転し事故現場まで行くまでにいくつかの交差点もあり、私はそこを右折したり、左折したりして運転して行つたようですが、それは日頃から通つている道であり、また毎日自動車を運転しているのでことさら注意しなくとも右折や左折が出来たんだと思うが、運転中道路が右折していたり、左折していたことを意識していたと思う。事故現場までに車を何かにぶつつけたショックは感じていない。また東洋工業の近くの三差路で交通事故があり、警察官が実況見分をしていたようです。」と供述しているのであつて、被告人は本件自動車の運転を開始してから本件事故現場に至るまでの運転の径路について相当程度明確な記憶、認識を有していたことが認められる。なお、司法警察員作成の昭和四三年四月一六日付捜査状況報告書、当審における検証調書、当審証人竜花昭智の証言によれば、本件自動車の駐車場所(被告人の運転開始地点)から国道二号線のバイパスに至るまでの全長約六五〇メートルの間は、幅員約4.6メートルの比較的狭い道路で、当時夜間はかなり多くの自動車が道路左右に駐車していた状況であつたことが認められるが、被告人は、右検察官に対する供述調書中で、供述しているように、このような状況の道路を車幅1.49メートル(司法警察員作成の実況見分調書によつて認められる)の本件自動車を運転し、約六五〇メートルの間、駐車していた自動車等に接触衝突することなく無事通過しているのであつて、被告人は本件自動車の運転を開始した当時には、ある程度酒の酔いもさめて慎重な運転をなしうる状態にあつたものであることが推認される。
(四)の点について、
なるほど、本件事故発生時から約三〇分後である昭和四三年四月七日午前一時一〇分頃司法巡査によつて作成された酒酔い、酒気帯び鑑識カードによれば、被告人の酩酊度は呼気一リットルにつき0.5ミリグラム以上のアルコールを身体に保有していたものであり、被告人が本件犯行当時相当酒に酔つていたことは明らかであるけれども、右鑑識カードによれば、被告人の酩酊状態は、歩行が少しふらつき、体が少しゆれ、言語は怒声で頭が少しぐらつき、顔面は少し赤く、酒臭が強く、態度、服装が少し乱れているといつた状態であつて、さほど高度の酩酊状態にあつたものとは認められない。
以上検討したところを総合すれば、被告人が本件自動車を窃取し運転を開始した当時、飲酒酩酊していて、是非善悪を弁別し、その弁別に従つて行動する能力が若干減退していたとしても、その能力が著しく減退していた状態、すなわち心神耗弱の状態にあつたものとはとうてい認めることができない。してみると、本件各犯行当時、被告人が飲酒酩酊により心神耗弱の状態にあつたものと認定した原判決は結局事実を誤認したもので、その誤認が判決に影響を及ぼすことが明らかであるから、原判決はこの点において破棄を免れない。検察官のこの点に関する論旨は理由がある。
次に、弁護人の所論について検討するに、被告人が本件各犯行当時、心神耗弱の状態にあつたものと認めることができないことは前段の説示のとおりである以上、本件各犯行当時、被告人が心神喪失の状態にあつたことを前提として、被告人に対し刑法三九条一項を適用し、無罪の言い渡しをすべきであると主張する弁護人の所論はとうてい採用するを得ない。
よつて、被告人の控訴は理由がないから、刑訴法三九六条に則りこれを棄却し検察官の控訴は理由があるから、検察官の量刑不当の論旨に対する判断を省略し、刑訴法三九七条一項、三八二条に則り原判決を破棄し、同法四〇〇条但書に従い直ちに判決する。
(罪となるべき事実)
罪となるべき事実は、原判示第二の「……傷害を負わせたものであるが」とある部分を「……傷害を負わせたものである」と訂正し、原判示「罪となるべき事実」の最後の二行、すなわち、「被告人は……心神耗弱の状態にあつたものである」との部分を削除する外は、すべて原判決摘示のとおりであるから、これを引用する。
(証拠の標目)<省略>
(法令の適用)<省略>(高橋文恵 久安弘一 弓削孟)